2022-05-01から1ヶ月間の記事一覧

山田太一グラフィティ(46)

ETV8「テレビから映画を問う されど映画を愛す」 司会は白井佳夫氏。 中島丈博さんはご自身の脚本監督で映画「郷愁」を発表したばかり、山田さんは映画「異人たちとの夏」が公開されたばかり。 「テレビから映画を問う」なんて景気のいい話ではなく、映画も…

山田太一グラフィティ(45)

1989年 NHK 「ETV8テレビから映画を問うされど映画を愛す」 中島丈博さんと。 「今朝の秋」など山田さんのドラマ作品が紹介されます。 山田さんは松竹から、中島さんは日活からと、ともに映画界から入ってきたこともあり、映画とテレビの違いが語られます。

山田太一グラフィティ(44)

1988年 「異人たちとの夏」で山本周五郎賞受賞。 隣には三島由紀夫賞の高橋源一郎氏の顔も。 今となっては珍しいツーショット。

山田太一グラフィティ(43)

「ETV8崩れゆく家族像」 川本三郎氏との対談。 家族の変動を語ります。

山田太一グラフィティ(42)

1987年 「ETV8崩れゆく家族像」 家族の問題なら山田太一とばかりに、NHKからのオファーが多くなります。

山田太一グラフィティ(41)

1986年 NHK「洋次、ひさし、太一合作シナリオ作り」 業界の第一人者が集まって映画を作る夢の企画。 両雄並び立たずにならないように、慎重に意見が交わされます。 山田太一さんは「人格を試されているような気がする」と言い、井上ひさしさんは「相撲の仕切…

山田太一グラフィティ(40)

NHK徳島TV祭テレビドラマの原点を求めて。 シナリオライター山田太一、倉本聰、ジェームス三木を中心に、各テレビ局スタッフが一堂に集まったシンポジウム。 今では考えられないイベント。

山田太一グラフィティ(39)

1984年 「おやじのおやじ論」には、主旨とは関係なく、愛犬とのスナップも掲載。

山田太一グラフィティ(38)

1984年 「おやじのおやじ論」(主婦と生活社 共著) 山田さんはいろんなメディアに出現するようになります。 脚本なども頻繁に出版され、一ファンではもう追いかけきれないほどになります。 今でもヤフオクで雑誌記事の「切り抜き」が売り出されたりすると「…

山田太一グラフィティ(37)

ふぞろいの林檎たち 一作一作未知の世界への挑戦を志す山田さんにしては珍しく「ふぞろいの林檎たち」はシリーズ化されました。 「早春スケッチブック」も発表されていて、根強いファンを発生させます。 「夕暮れて」もこの年です。

山田太一グラフィティ(36)

ふぞろいの林檎たち 1983年 「ふぞろいの林檎たち」制作時のスナップ。

山田太一グラフィティ(35)

1982年 1982年芸術選奨受賞パーティー 1974年に「河を渡ったあの夏の日々」で芸術選奨新人賞はとっておられましたが、この年再び芸術選奨を受賞されます。 対象作品は 「ながらえば」 「終わりに見た街」 「男たちの旅路 ―戦場は遥かになりて」

山田太一グラフィティ(34)

戦後37年、核兵器が使われなかったのは、いろいろ理由はあるだろうが、広島長崎の惨状が世界の共通認識となり、核の脅威を知らしめたことも理由のひとつではなかったろうかと、永井博士の息子さんが語っていて、その言葉に共感して書くスタンスが決まった…

山田太一グラフィティ(33)

1982年 企画中の映画「この子を残して」の脚本第一稿を書きあげ、持参した山田さん。 木下さんがこの脚本をもとにして第二稿を書くということでした。

山田太一グラフィティ(32)

1982年 山田さんは第一稿をもっています。 山田さん48歳。

山田太一グラフィティ(31)

1982年 NHKで「訪問インタビュー木下恵介」が放送されます。 木下恵介さん69歳の時です。 長らく湘南辻堂に住んでおられましたが、この時には都内のマンションに移っておられます。 そこに山田さんが訪ねられます。

山田太一グラフィティ(30)

1982年 「終りに見た街」放送。 最初小説として発表された「終りに見た街」。 「岸辺のアルバム」同様、ご自分の脚色によるドラマ化です。

山田太一グラフィティ(29)

1982.1毎日新聞 1982年戌年インタビュー 前年は暮れまで「想い出づくり」で視聴者を熱狂させた山田さん。 年男として新年の抱負を語ります。 「十七年間ライター生活を送ってきましたので、ことしは、自らをふり返って少しきたえ直す意味で、連続ドラマは一…

 山田太一グラフィティ(28)

1979年 「岸辺のアルバム」以後、家族問題の騎手になってしまった山田さん。 これも小説先行のドラマ化で、また一つ先に行った辛口ホームドラマでした。 この年「月刊シナリオ」にエッセイ「私にとってのテレビドラマ」が発表されます。 それはテレビドラマ…

山田太一グラフィティ(27)

1978.3.10 山田さんの露出は増え続け、 ある雑誌の企画で、山田家の食事風景まで紹介されました。

山田太一グラフィティ(26)

1978年 1978.7.25新聞記事。 家族崩壊モノはすでに「それぞれの秋」が発表されていて、一部の人々は注目したけど一般的なものではありませんでした。 それが「岸辺のアルバム」によって家族崩壊現象は一気に注目をあびます。 さらに「高原へいらっしゃい」「…

山田太一グラフィティ(25)

1978年 「岸辺のアルバム」で「一味違った私をお見せします」と八千草薫さん。 でも、最初はオファーを断っていた八千草さんでした。 八千草薫 八千草薫 この人に浮気妻をやらせようというのです。 当時昼メロで「よろめきドラマ」はたくさんありましたが、…

山田太一グラフィティ(24)

1978年 1978年「岸辺のアルバム」。 あまりに暗い内容からTVドラマ化は無理と思って、新聞小説で発表していた山田さんでしたが、連載中にTBSからドラマ化の話が来ます。

山田太一グラフィティ(23)

記念樹 「山田太一グラフィティ」は、基本的にマスコミ上にあらわれた、山田さんの写真を探そうという企画ですが、60年代から70年代、山田さんの写真はあまり発見できません。 この時代、山田さんは新人作家のひとりで、時折り話題となるドラマを書いても、…

山田太一グラフィティ(22)

社会人へ 大学卒業後山田さんは松竹撮影所へ。 寺山修司氏は、評論、詩、演劇、映像とマルチに手を広げ、後に「職業は寺山修司です」と言わざるを得ない世界に突入していきます。

山田太一グラフィティ(21)

学生時代 山田さんは毎日のように見舞い、語り合い、手紙を書きます。 病気の友達は訪ねていくと必ずいるんだよね、そういうことって他の友人にはないことでね、と後年語った山田さん。でも、あまり話すと寺山さんが疲れちゃうので、お母さんも心配されてて…

山田太一グラフィティ(20)

学生時代 寺山修司氏はネフローゼとなり入院を余儀なくされます。

山田太一グラフィティ(19)

学生時代 寺山修司氏は「チェーホフ祭」で「月刊 短歌研究」の賞をもらったばかりで、お互いに賞をもらって、これからはわれ等の天下だなんて笑います。 喫茶店に入るお金もないから、歩きながら喋り、別れた後は喋り足りなかった分を手紙に書き、さらに会っ…

 山田太一グラフィティ(18)

1954年 パスカルを教えてくれた先生に影響され、癖のある文字まで似せて書いていたので、山田太一が山匁太一と誤読されて掲載。 それを見て、同じ早稲田に通っていた寺山修司氏が訪ねてくる。 「やまもんめって君?」と冗談を言いながら。

山田太一グラフィティ(17)

1954年 小説「喝采」を書きあげ、「『文藝』全国学生小説コンクール」の佳作入選となる。