2022-04-01から1ヶ月間の記事一覧

山田太一グラフィティ(15)

高校生 湯河原から小田原高校へ通う日々。 学校で「4時8分」とあだ名をつけられていたそうで、授業が終わると、ダッシュで4時8分の列車に飛び乗り帰宅していていたそうです。 家の手伝いが大変でそうせざるを得なかった。 根府川・真鶴間には通称「眼鏡トン…

山田太一グラフィティ(14)

中学生 湯河原中学に進学。 2人の教師に出会い、芭蕉の俳句や島崎藤村の詩、小林秀雄やパスカルなどを知ったそうです。 パスカルを教えてくれた先生はヒロポン中毒で、それに頼らなければ戦争に耐えられなかった人で、その先生が中毒を克服する姿がコミック…

山田太一グラフィティ(13)

1944年 4月に強制疎開で浅草を立ち退くときの写真。 山田さん9歳。 建物疎開とも言われ、戦争のために自分たちの家が取り壊されるというのはどんなお気持ちだったことでしょう。 8人兄弟の7番目で6男でしたが、この時すでに3人のお兄さんが亡くなってお…

山田太一グラフィティ(12)

浅草での幼少期 山田さんの幼少期。 左側が山田さんです。 刀をさして、芝居の子役のような衣装ですが、浅草の舞台?お祭り?仮装行列?それとも当時の七五三? まるで女の子です(笑)。

山田太一グラフィティ(11)

七五三 ご長女七五三写真。 「3人家族」 「パンとあこがれ」 などを書かれていた頃だと思います。 次女さんは爆睡。大変そう(笑)。 右写真は幼稚園の頃。 「記念樹」の放送はまだ始まっていないけど、脚本を懸命に書き進められていた時期ではないでしょう…

山田太一グラフィティ(10)

1964年 木下監督は松竹を辞めたあとテレビの世界へ。 同行した山田さんもテレビライターへの道を歩み始めます。 こうして脚本家山田太一が起動します。 1964年は木下さんにとっても、山田さんにとっても、やがて発生する山田ファンにとってもエポックとなる…

山田太一グラフィティ(9)

1964年 3時間21分の大作「香華」5月9日完成。 山田さん絶賛の映画です。 映画の完成後、木下監督は松竹を退社。 山田さんも同じく辞めてしまいます。

山田太一グラフィティ(8)

1964年 打合せ中。 山田さん、木下さんの脇で何を考えているのでしょう? 助監督時代は、いろんなトラブルの中で、結構静かに耐えている、そういうタイプじゃなかったんですか?と山田さんに聞いたことがあります。 すると「ううん。そんなことないよ」と言…

山田太一グラフィティ(7)

1963年 木下恵介さんの助監督として北海道ロケに参加した時のスナップですが、1963年なんです。 山田太一グラフィティ(5)を見返してください。 1963年に北海道へ新婚旅行とあります。 まさかロケの最中に新婚旅行の日程をもらったなんてことはないと思うけど…

山田太一グラフィティ(6)

週刊文春2013年 「対談 阿川佐和子のこの人に会いたい」のゲストに。 このグラビアを見て「阿川佐和子の胸が山田さんに当たっている!許せない!」と女性山田ファンが激怒!! そう言われて見れば、阿川佐和子の胸はちょっと大きめで、「ふもと」のあたりが…

山田太一グラフィティ(5)

小学生&1963年助監督時代 上の写真は華厳の滝での家族写真。 昔はどこの観光地にもいた写真業者が撮った写真だと思います。 下の写真は結婚してから2年後(!)の新婚旅行時のもの。多忙だったんですね。

山田太一グラフィティ(4)

女性セブン1972年 NHKの新しいテレビ小説「藍より青く」を書くライターは、こんな人という特集が組まれた時のもの。 山田さん37歳。

山田太一グラフィティ(3)

女性セブン1972年 これも同じく。

山田太一グラフィティ(2)

1972年女性セブン おそらく、マスコミに初めて出た山田さんの写真だと思います。

山田太一グラフィティ(1)

山田さん いつごろの写真かわかりません。 70代でしょうか。 雑誌でみつけたと思います。 「山田太一グラフィティ」では、マスコミに公表された山田さんの映像を追いかけることによって、山田さんがどういう取り上げられ方をしていったのか、一端を明らか…